2013年3月13日水曜日

三日月プライスレス

ケニアのサファリロッジは省エネのために夜間は停電します。ムパタも例外ではありませんが、バルーンサファリの参加者が身支度をする必要もあるので5時前には電気がきます。ということはスイートルームに併設するジャグジー施設も朝っぱらから使えることを意味します。そんな時間に東の空を見上げるとこのような景色が見えるのです。

2013年3月12日火曜日

2013.3.10

今回の大統領選挙では投票から5日後の3月9日に結果が発表されました。前日から大勢は判明していましたし勝者が大きく2番目の候補を引き離したこともあり、発表時に大きな混乱はありませんでした。

翌10日、マサイマラの平原からぐんぐん昇る太陽を見ていた私にはケニアの将来が頼もしいようにも感じられました。当面の心配としては危機に備えて備蓄した10日分の食料の調理方法くらいです。

2013年3月8日金曜日

2008.1.3

この日はラジオからナイロビ市内の混乱が伝わってくるなか、想像力を働かせて帰り道の策定を行いました。ナイロビに着いてから食べる予定だったランチは急遽ナイバシャに変更し情報収集にあたりました。

お客様の帰国便が夜中だったので出発まで使えるようにと押さえておいたノーフォークホテルですが、辿り着けないと判断して権利放棄しました。代わりに郊外にあるキリスト経系の安宿で夜まで休んでいただきました。夕食抜きになってしまい、特にお子さんが可愛そうでした。

夜も更けて人通りが無くなったのを確認してからホテルを出発、夜道をぶっとばして空港に滑り込みました。これが私のストーリーですが、同時に全国でもっとひどい悲劇が起きていたのを知るのはもっと後になります。

2013年3月7日木曜日

2008.1.2

一旦5年前から現在のケニアに話を戻しますと、投票から48時間経った今でも全国的には平穏でして、ホットスポット(騒動が起きやすいエリア)として名指しされたキスム、ナクル、キベラなどの町も今のところ目立った騒ぎは起きていません。
 
5年前の1月2日はナイバシャ湖でボートに乗った後でナクル湖へ向かいました。移動中はサファリカーのラジオを小音量でつけてお客様には気づかれないようにしながら危険情報を収集していました。

2013年3月6日水曜日

2008.1.1

30日には野党の若手、ルトー氏が選管の机とマイクを乗っ取り「この選挙はいんちきだ」などと宣言、これが契機となり全国で略奪や対立する部族への攻撃がエスカレートしました。今彼が国際法廷で裁かれているのはこれらの暴力行為を事前に計画した疑いの為です。
 
現職が無理やり就任式を開き、更なる暴力の渦巻くなかケニアは新年を迎えました。私は旅の後半を迎えたお客様といっしょにナイバシャへ向かいました。途中にあるロンゴノット山の麓には数ヶ月後には難民を収容する簡易テントがずらっと並ぶことになるのです。

2013年3月4日月曜日

2007.12.29

ガイドの仕事もうまく行った29日、お客様は空路マサイマラへ。私とドライバーは陸路でナイロビへ向かいました。
ラジオからは現職と野党党首のデッドヒートが開票が進むにつれて明らかになっていきました。本来ならばこの日に結果発表が予定されていたのですが、選管がいろいろ言い訳をしつつ先延ばしにしている間に全国で不満や疑惑がつのっていったのです。

2013年3月3日日曜日

2007.12.28

白黒はっきりつけるのをアフリカ人は嫌がりますが、無実の1,300名の命が失われた5年前をすっかり忘れてお祭り騒ぎをしている政治家とそのサポーターの姿を今日の午後テレビで見た瞬間に私もいいかげんキレました。少しトラウマ的ではありますが気力を振り絞って2007年の選挙がどんなにひどかったかを犠牲者のためにもここで思い返したいと思います。全て個人的体験に基づくものです。
 
12/27の投票日そのものは平穏でした。友人と鍋を囲むためにビールを探し回ったほどでした。日本大使館は結果次第では荒れるという予想を出してはいましたが同時に300人の邦人が一斉に大使館に逃げ込んできたら対応できないので自主的な退避を勧める、という姿勢でした。

翌28日は大事なお客さんのためにアンボセリへ行きガイドをしていました。夕焼けキリマンジャロも美しく、まさかそれから2ヶ月の間ケニアを暗雲が覆い続けるとは思いもよりませんでしたね。

2013年3月2日土曜日

買いだめケニャ

とうとう月曜に投票日を迎えるケニアですが、主要スーパーがこぞって閉店をアナウンスしたことも手伝って近所のお店は人でいっぱいでした。水を20リットルほど買っているのが特に目につきました。

平和。口にするのは簡単なこの一言を達成できるかどうかを欧米が次の一週間注目することになります。